デジタルハリウッド大学特別講義
映画「ROOKIES―卒業―」 ~あの映画はこうして生まれた~
5月30日に公開されてから3カ月を迎え、なおも快進撃を続ける映画『ROOKIES―卒業―』。観客動員数はすでに684万人、興行収入84億円を突破しており、洋画・邦画を合わせたすべての2009年公開作品の中で第1位(※1)を記録しています。
今回、デジタルハリウッド大学ではモデレーター高橋光輝学長補佐のもと、映画『ROOKIES―卒業―』の企画プロデュースを担当した石丸彰彦氏をお招きし、映画『ROOKIES―卒業―』の製作誕生秘話、大ヒット映画の作り方、製作プロセス、 作品の見所、プロデューサーの役割などを語っていただきました。
※1)2009年8月26日時点
どうして『ROOKIES』をドラマ化したのですか?
『ROOKIES』との出会いは2003年7月です。プロデューサーデビューをした作品で、その時の出演者の一人小栗旬君が「『ROOKIES』を知っていますか?」と言うので、読んでみると本当に面白い。しかし、その頃の僕はその時その一瞬は骨太な作品のほうが世間に合っていると考え、『白夜行』のような作品をセレクトし、『ROOKIES』は頭の引き出しの中にしまっていました。2006年に一度『ROOKIES』をドラマにしてみようかと集英社に行きましたが、原作者が川藤(教師)役に佐藤隆太君を起用したいという声に、当時の佐藤隆太ではまだ川藤がつとまらないではと考え、一回は映像化を断念したんです。今考えても、あの頃の佐藤隆太ではまだ熟していなかったと思ってます。
その後、再度『ROOKIES』の話が出たのはいつ頃だったのですか?
2007年、企画の開発ではなく、企画を通す編成部に移動になりました。ニュース特番の放映判断や、番組表のプログラミングをする部所です。2007年3月頃、土曜夜8時の黄金枠(※2)が視聴率が低迷しており、毎週会議で議題にあがっていました。僕はバラエティー経験もありましたが、ドラマのほうがより自信があったため、あえて「視聴率10%だったら10%なりのドラマができます」とひょんな意見をしたところ、そのまま、責任持ってドラマをやることになったという経緯があります。バラエティーからドラマという大改編にもかかわらず、とんとん拍子で決まっていきました。しかし、長年付き合っていただいているスポンサーにすぐに話は出来ず、10月1日に完璧な企画書が完成し、キャストが決まるまでは営業にも、制作にも、脚本家にも言えない、編成部だけの秘密で話が進みました。全部自分の責任となったとき、失敗したら終わりですので、どの作品だったら失敗したとしても悔いなくやりきれるか考えました。ドラマ枠としては認知されていない時間帯のため、原作がある作品に絞り、試行錯誤した結果、バラエティーからドラマへの新たな壁をぶちやぶってくれる作品として『ROOKIES』が思い浮かんだのです。
※2)黄金枠(Golden time(和製英語))は、テレビ業界で視聴率が高くなりやすい夜の時間帯を指す用語
企画書制作やキャスティングについてどのように進めましたか?
企画を考える上で、僕のバイブルだった。ドラマ『スクール☆ウォーズ』を意識して作りました。コミュニケーションをやりなおす、家族で見るドラマにしたかったのです。企画書に書いた企画意図は“決してあきらめなかった教師とあきらめることしかできなかった不良たちの戦いの記録”です。このコンセプトを守っていれば、ドラマは成功すると思っていました。キャスティングはタイミングなど難しいものなのですが、100%希望通りにいきました。連続ドラマは面白いもので、生き物です。視聴者の反応があるし、役者さんがうまくはまるかもやってみなくてはわかりません。ですが、今回思った以上にはまりました。年齢的には教師と同じくらいの方もいましたが、不良のイメージを作り上げる上で、悪さをしっかり表に出さないと、ヒューマンになりません。ヒューマンにするために、20歳を越えた方に、本当に悪かったにおいを出してもらわないとダメだと思ったのです。
実際にドラマが放送開始をして反応はどうでしたか?
当初視聴率は11%が目標でした。業界用語で”ほっとする”というのを”ホツ”というのですが、スタッフ間で、視聴率11%で”ホツ”、12%で”握手”、13%で”抱擁”、14%で”涙”と言っていました。そして実際は初回12%。あの時の本当にホッとした握手の瞬間は忘れられませんね。2話で14.8%までいった時は本当に涙が出ました。佐藤隆太君も電話の向こうで泣いていましたね。過去、多くのドラマを作り、視聴率も多く獲得したものもありましたが、あの14.8%が一番嬉しかったです。
ドラマの視聴率が非常良かったわけですが、映画化にするというのは決めていなかったのですか?
2月に連続ドラマ化を発表したその日に、東宝から映画化の話が来ました。でもその時は土曜夜8時枠でドラマを開始するだけで自分自身精一杯でした。しかし初回終了後にも反響があり、また電話がかかってきたのですが、ドラマで漫画全巻分やりきると言っていたので、断っていました。集英社の方にも原作者の森田さんにも「安心してください。映画化の話が来ていますが、断っていますから」と言っていました。すると集英社の方に「やらないんですか?」と唖然とされたのを覚えています。原作者の森田さんからも「すごくいいドラマを作ってくれてありがとう」という言葉に加え、「映画やりましょうよ!」と言われ、改めて考えることになりました。しかし99%やりたくないという気持ちでした。と言うのも、ドラマの最終回のイメージも出来上がっていて、自信があったため、それ以上のものができると思えなかったのです。
8話の撮影中、朝からずっとロケを見ていて、朝4時からというロケでみんなすごく疲れているはずなのに、すごく楽しそうなんです。演技をしている時も、休んでいる時も、野球の練習をしている時も。それを見ていたら、彼らはこれ以上の作品に出会えるのだろうか、『ROOKIES』をきちんと卒業させてあげたほうがいいのではないかと考え始めたんです。そして浮かんできたのが卒業式をやってあげて、彼らが人間として恩師と向き合う話はどうだろうかと考えたんですね。そこで浮かんだのがひらっち(桐谷健太さん演じる平塚平)が泣いたらすごいのでは?ということでした。そのひらっちが泣くという構想が浮かんだから映画化したといっても過言ではないかもしれません。この構想を演出の平川に話したら、泣いてくれて。それですぐに集英社に連絡し映画化が決まりました。
オリジナルストーリーについては順調にいったんですか?
ドラマでやり残したことを、紡いでいったかたちです。失敗したなぁと思ったのが、ドラマが終わった後、脚本家のいずみ吉紘さんを休ませてしまったことです。3週間休んだ後、仕切りなおして映画に取り組もうとしたのですが、いざ書き始めようとしたら書けないわけです。『ROOKIES』のセリフは全部強いので、テンションをすごくあげないと書けません。ですので、7月の終わりから脚本を渡す10月10日まで二人三脚で懸命に取り組みました。
キャストの反応はいかがでしたか?
落ち着いたものでした。当時の撮影は日の出とともに始まるので3時半には集合し、夕方7時終了。夜9時寝るため、野球場と宿舎の往復だけだったんですね彼らは。ですから、キャストも自分たちの人気がどうなっているかわからない状況でした。一度グランドのまわりに1,200人もの人が集まったことがありまして。そこでようやく、あれ?俺たち人気あるらしいよ。となり、最後には、俺たち人気あるぜ!てなっていたんですけどね(笑)ドラマが始まった当初は役者のスケジュールも半年間おさえることができるほど、彼らもまだそこまで忙しくありませんでした。こいつらをスターにしてやりたい!その一心でがんばりました。
エキストラを集めるのに苦労したのではないですか?
インターネットで募集して集まってくれたので苦労はしなかったです。支えられたと思っています。気持ちはスタッフと一緒でしたね。冬だから厚着なのですが、脱いでと言うと脱いでくれて、あおいでと言うと内輪をあおいでくれて。エキストラという言葉は使えないです。共演者ですね。キャストにも、挨拶をしにいきなさいというのは徹底していました。
映画の中での一番思い入れのあるシーンは?
苦労なんて1つもなく、いいキャストと過ごせ、いいスタッフと頑張れて、ただただ幸せだと毎日思っていました。ですから、思い入れがあるというと全部になってしまいますが、やはりラストシーンは言わせたいセリフというものがありましたね。本番しかセリフを言っていません。ぶっつけ本番です。1人1人と面接して、イメージしてくださいとシーンでかかる曲のCDを渡しました。“俺がお前だったらこうだろう”というセリフを用意しました。そして呼ばれた人が前にいきなさい、というスタイルで撮影しました。あの時は自分自身泣きながらモニターを見て、そして次は誰々行け!と1人1人の名前を叫んでいました。すごくいい空間を体験できたなと思っています。あのときの撮影は忘れないですね。
感情が最高潮に高ぶるシーンですよね。
ひらっち役の桐谷には始めから「お前は最後に泣かせたい」と言っていました。だからどんなに感動しても連続ドラマでは泣くなと言い聞かせ、そして映画で最後の涙ですよ。神のような演技に僕もはじめて声をあげて泣いてしまいました。桐谷には感謝しています。
「GReeeeN」というアーティストの選定は?
「愛唄」にパワーを感じていたんです。ですから、当初ROOKIESのイメージを「愛唄」で作っていたため、連続ドラマ最初のスポットは「愛唄」を使っています。最初からラブソングがいいと考えていました。男の人が歌うラブソングがいいと。教師と生徒が、ラブのような、君がいなきゃと想い合えるような歌がよかったんですね。また、映画はバックショットで歩かせ、そこに“さよなら”を何回もかけたいという想いがありました。そういった希望を伝え、聞いて頂いて素晴らしい曲を作ってもらい感謝しております。
なぜここまでヒットしたと思いますか?
よく聞かれるのですが、ヒットの出し方は僕も知りたいですね。ただ、『ROOKIES』は今まで制作したどの作品よりも愛されたという実感があります。僕にとっては奇跡のような2年間でした。本当に集中でき、あのタイミング、あのキャストでできたのが幸せでした。みんなに支えられていたと思います。手探りでしたが一個一個やってきたことが、正解だったと思えます。後悔もありません。悔しかったことで強いて挙げるなら、連続ドラマ撮影初めの頃、テレビ誌の記者が取材に来なかったときですね。テレビ番組での宣伝も、初めは「出して欲しい」と言っていました。ですが、最終的には「出て欲しい」となり、TBSにも彼らをとことん愛してほしいという気持ちから、様々な番組への出演は一切断らずにできる限り出るようにしました。
原作者の森田さんから「こうして欲しい」というような要望はありましたか?
無かったです。もし、「こうして欲しい」というのが多くあったとしても、それをそのまま受け入れることは無かったと思います。原作があるものはどうしても原作が正解なので、勝てないですから。だからこそ、原作に忠実にするならそのまま原作を読めばいいとなってしまうので、原作とは違った良さを出すようにしました。
最後にテレビや映画のプロデューサーを目指す方にメッセージをお願いします。
私がこの仕事を目指したきっかけは高校時代、テレビプロデューサーの亀山千広さんが高校の学園祭で卒業生として講演をしてくださった時「テレビドラマのプロデューサーの仕事を分かりやすく言うと、ある女優さんとある俳優さんにキスをさせたいな、と考えたり思ったりしたとき、僕はそれが実現できる職業です」という言葉に影響を受け、そこからドラマのプロデューサーになるんだ!とここまできています。大学時代は特別なことは何もやっていませんでしたが、ドラマは全部見ていました。それだけは4年間続けていました。自分だったらこうするなと考え、視聴者にならないよう気をつけていました。また、人とうまくコミュニケーションをとることがとても大切です。言葉の“強さ”“重み”を研究して、説得する能力を身につけることが大事です。
もしドラマでも何でも良いのですが、テレビの仕事、エンターテイメント仕事につくなら、人に対して優しく、繊細であってほしいです。作品がヒットするかどうかはわかりません。その時代の空気を勘で読むしかありません。ですので、自分の勘を強く信じ、人に優しくあれと。私もそう思って生きています。
石丸彰彦
1974年静岡県出身。1997年TBS入社 編成制作部 制作局ドラマセンター
バラエティ・ドラマの演出補を経験後、「学校へ行こう!」ディレクターに。2003年、プロデューサーとなり「世界の中心で、愛をさけぶ」「白夜行」「華麗なる一族」など数々のヒットドラマをプロデュース。「世界の中心で、愛をさけぶ」はソウルドラマアワード最優秀プロデューサー賞を受賞している。 2007年3月より現職。「ROOKIES」には企画・プロデュースとして土曜8時ドラマ枠の立ち上げに携わる。
(取材・原稿/小島千絵)
















