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【開催レポート】THINK FROM FOOD CULTURE. くどう しおり先生による特別講義「食の未来を、クリエイティブ&ミニマムな商いから考える。」

【開催レポート】THINK FROM FOOD CULTURE. くどう しおり先生による特別講義「食の未来を、クリエイティブ&ミニマムな商いから考える。」

開催日時

2023年1月16日(月)19:30~21:00

場所

デジタルハリウッド大学駿河台ホール/Zoomオンライン中継

サステナブルな企業のあり方、事業の構築を再考する特別講義「THINK THE SIZE.」。全5回の共通のテーマは、未来を見通すためのひとつの視点である「サイズ」です。2023年1月16日に実施された「DAY 2 THINK FROM FOOD CULTURE. 食の未来を、クリエイティブ&ミニマムな商いから考える。」では、豆腐マイスターであるくどう しおり先生が登壇しました。

くどうしおり Kudo Shiori
豆腐マイスター

幼少期より無類の豆腐好き。大学で異文化コミュニケーションを学ぶ中で「食文化としての豆腐」の魅力に目覚め、豆腐マイスターの資格を取得。国内外で、手作り豆腐ワークショップや食育イベントなどの活動を開始する。2018年からは「往来(おうらい)」を屋号に、豆腐文化を発掘・発信。イベント企画・デザイン・取材執筆などで活動中。「マツコの知らない世界」(TBS系)、「ヒルナンデス」(日本テレビ系)等へ出演。著書に『まいにち豆腐レシピ』(池田書店)。

くどう先生は、大学在学中に豆腐マイスターの資格を取得しました。当時、最年少で豆腐マイスターになったことからテレビやラジオ、雑誌などが注目。年間1000食以上の豆腐を食べる豆腐マイスターとして、数多くのテレビ番組にも出演されています。

戦後、豆腐製造を生業とする人は急激に増加し、街の豆腐屋さんは日本全国に約5万店舗もありました。しかしその店舗数は年々減少し、現在はかつての1/10の数になってしまいました。なぜ、豆腐業界のサイズは急激に拡大し、縮小していったのでしょうか。この記事では、くどう先生の特別講義をダイジェストでお送りします。

本講義は、デジタルハリウッド大学駿河台ホールとZoomによるオンライン中継のハイブリッド形式で実施しました。

豆腐が広まったのは、江戸時代と第二次大戦

豆腐の理解を深めるには、まず起源から。最初はくどう先生と一緒に豆腐の歴史を振り返りました。

中国で生まれた豆腐は、奈良時代に日本に伝わったと言われています。その当時、豆腐は貴族や僧侶など一部の人の食べ物でした。都があった奈良や京都から徐々に豆腐文化は浸透していき、江戸時代に庶民の食べ物として全国に広まったそうです。

ちなみに、現在でも奈良県や京都府内には豆腐屋さんがたくさんあり、参加した学生の中には「奈良県で豆腐屋さんに行ったことがある」という方もいました。

江戸時代に急速に普及した大きなきっかけは、『豆腐百珍』という料理本だと言います。豆腐を使った100のアレンジ料理が掲載されており、第2弾も登場するほどのベストセラーとなったそうです。

そして豆腐屋さんが増加する最も大きなきっかけとなったのは、第二次世界大戦でした。

豆腐の原料は「大豆」と「ニガリ」の2つです。大豆に含まれるタンパク質と、ニガリの塩化マグネシウムという成分が化学反応をして固まり、豆腐ができ上がります。戦時中はこの塩化マグネシウムが戦闘機などを作る金属の原料として使われることになり、当時の豆腐屋さんは「ニガリ」を使えなくなってしまいました。

そこで代用品として登場したのが、すましこ(石こう)です。すましこで作った豆腐は、つるんとした食感が特徴。ニガリで作った豆腐とはまた違った良さがあるそうです。また、ニガリで作るよりも難易度が低いと言われており、終戦後に職を探していた人が生業として豆腐屋さんを始めたそうです。

そして豆腐製造者の数は激増し、1960年には5万件を突破しました。(参考:全豆連「豆腐事業者数の推移・販売額等」)

小・中・大規模、それぞれの豆腐製造者はどうなっていったのか

戦後、豆腐業界が盛り上がる中、現代に至るまで豆腐業界にはさまざま出来事がありました。

まず、1966年に「中小企業近代化促進法」が国から出され、中・大規模事業者が食品業界へ参入するようになりました。これに対して悲鳴をあげたのが、主に家族で営業をしている街の豆腐屋さんです。小規模事業者を守ろうという動きが活発化し、1977年には「中小企業分野調整法」という、大企業の参入を規制する法律が公布されました。

くどう先生は「これによって豆腐業界の進化が止められてしまったのではないか」と考えています。「たとえば、森永乳業さんやハウス食品さんといった大きな企業は日本で豆腐を販売しようとしていましたが、規制によって海外へ進出せざるを得なくなりました。そのため現在は、森永乳業さんは常温豆腐を発明して海外で販売しており、ハウス食品さんはTOFUの会社としてアメリカで親しまれています」と大企業の動向について話しました。

大企業が参入できなくなった結果、街の豆腐屋さんはどうなったのでしょうか。1960年にその数はピークを迎えましたが、それ以降豆腐屋さんの数が増えることはありませんでした。

その大きな要因のひとつがスーパーマーケットの登場です。機械による量産化が進み、充填豆腐と呼ばれるパックに入った豆腐が安価で売られるようになりました。

街の豆腐屋さんが作る豆腐は、美味しいけど日持ちせず、形が崩れやすいから流通に不向き。小売店での販売が難しく、従来通り製造と小売を一貫して自社で行っていました。

また、街の豆腐屋さんは後継者不足にも悩まされます。豆腐作りは職人技であり、継承が難しい。自動化するにも設備投資は必須。事業を継承するには多くの壁があり、現在も後継者問題は続いていると言います。

「店主の方に『息子さんが継ぐんですか?』と聞いても、『息子はサラリーマンになるから俺の代で閉めるんだ』とおっしゃる方もいるんです。時代的にも、豆腐屋以外になりたいものがあるなら、無理に継がなくても良いという方がやっぱり多くて」と、くどう先生はデータ上だけでなく実際に会った豆腐事業を営む方からも後継者問題の話を聞くそうです。

さまざまな外的・内的要因から、大企業は海外で販売し、中規模事業者は機械化を進め卸売業に。そして小規模事業者である街の豆腐屋さんは、価格競争や後継者問題によって閉店を余儀なくされているのです。

日本には地域ごとに、固有の豆腐文化が根づいている


大企業の参入が規制された豆腐業界でしたが、豆腐を全国規模で統一できなかった理由として、くどう先生は豆腐ならではの特長について話します。

「豆腐といえばあの企業、と誰もが知っているナショナルブランドが不在なのは、(国の法律だけでなく)別の要因も考えられます。おそらく、地域ごとの豆腐文化が異なりすぎるから、全国展開が難しかったのではないでしょうか」

たとえば、沖縄ではチャンプルーに合う噛みごたえのある豆腐が好まれます。一方京都では、湯豆腐に用いられる柔らかい豆腐が主流です。

くどう先生は「地域によってサイズや柔らかさがまったく違うのがお豆腐の面白いところ。いろんな地域に行く際には、異文化体験をしてもらおうと思って、京都に沖縄のお豆腐を持っていくことがあるんです。こんな噛めるお豆腐初めて食べたとおっしゃる方もいます」と、豆腐の多様性に触れます。

しかし地域ごとに独自の文化がある中で、ナショナルブランドになりつつある企業があるそうです。それが「相模屋食料株式会社」です。

木綿・絹豆腐のようにメジャーな商品はもちろん、ひとり鍋用の豆腐や「機動戦士ガンダムシリーズ」とのコラボ商品など、ユニークな商品を開発。また、他メーカーとの合併や買収を進めることで大きな企業になっていきました。

くどう先生が言うには、相模屋食料株式会社が実施しているM&Aが、豆腐業界にとって明るい出来事だそう。「相模屋さんが大切にしているのは、各地の固有の豆腐文化を守り抜くこと。相模屋さんのやり方で統一させるのではなく、それぞれのブランドの良さをそのままに、経営改善に踏み込むんです」と、くどう先生は紹介しました。

街の豆腐店は、このままなくなってしまうのか?

では、小規模の豆腐屋さんはどうなってしまうのでしょうか。そんな心配がある中、価格競争から離れて独自の道を歩む豆腐屋さんも出てきているそうです。

その例としてくどう先生は、徳島県佐那河内村にある有限会社村のおっさんを紹介しました。村のおっさんのこだわりは、「ワイが喰うてうまいモンを造る!」。職人だからといって、なんでも手作業にこだわるのではなく、機械で作れて日持ちする充填技術を採用。そして生まれた「充填こいまろ」は、日本一旨い豆腐を決める全国豆腐品評会で金賞を受賞しました。

店主の桑原さんご本人がCMに出演したり、SNSで発信したりするなど、そのキャラクターから村の看板として愛されているそうです。

ほかにも、和歌山県田辺市龍神村にある「地釜とうふ工房 るあん」を紹介。るあんは和歌山空港から車で1時間半走った場所にある、隠れ家的工房です。作るのが難しいと言われている、地釜を利用した製法で豆腐を生産。

また、るあんは豆腐を作るだけでなく料理としてお客さんに提供します。豆腐の美味しさや、和洋折衷の独創的な料理が注目され、るあん目当てで龍神村に来店する方が多いそうです。

るあんの「おぼろとうふ」を実食

ここで会場の学生にとって嬉しいサプライズが。先ほど紹介した、るあんの「おぼろとうふ」の試食タイムです。

学生からは「まろやかで食べやすい。自宅でいろんな調味料をかけたらより美味しくなりそう」という声も上がりました。おぼろとうふは、ほのかにニガリの塩味も合わさっていることから、何もつけなくても美味しく召し上がれるとオンラインストアでは紹介しています。るあんの「おぼろとうふ」は、そのまま食べても、アレンジしても楽しむことができそうです。

そしてもうひとつのサプライズとして、るあんの店主である小澤さんが登場。豆腐を作っている工房から中継でお話を伺いました。

「龍神村には、豆腐作りが上手なおじいさん、おばあさん、お嫁さんがいます。皆さんあまりにも美味しい豆腐を作ってくれるため、村の中では豆腐屋さんと呼ばれているんです。秋になって大豆を収穫すると馴染みの豆腐屋に行き、それを豆腐にしてもらう。そんな文化が根づいています。ですが皆さんご高齢になり、豆腐作りをやめてしまう方が増えてきて、このままでは馴染みの豆腐の味がなくなってしまう。僕はもともと龍神村で林業をしていましたが、その味を残したくて自分の林業と豆腐作りをかけ合わせ、薪で加熱する地釜豆腐を作るようになったんです。」

豆腐屋さんを始めた当初、小澤さんは田んぼや山仕事をしながら作ろうと思っていましたが、次第に本業になったそうです。また小澤さんは、今後の食品・飲食業界やご自身の働き方についてこんな話をされました。

「豆腐業界において、これから大事になってくるのは “違い” です。たとえばこの豆腐を食べたら作り手の顔が浮かぶとか、大豆の特徴がわかるような独自のカラーが重要になると感じています。そのために大切なのが、やはり作り手がワクワクして作ること。大変なことはあるけれど、毎日が楽しくてしょうがないと思える人がたくさんいると、その業界の未来は明るいと思うんです。自分も豆腐屋になってみたい、豆腐業界に関わりたい、新しい世代にそう思ってもらうことが僕の役割だと思っています。」

理想の豆腐店の “サイズ” とは?

最後にくどう先生は豆腐店のサイズについて話し、特別講義は終了しました。

「どんな食べ物にも言えることですが、原料の生産、加工、流通、販売など、わたしたちの手元に商品が届くまで、さまざまな方が関わっています。大きいサイズの豆腐製造者だけでは成り立たないし、小さいサイズの豆腐店

だけでもわたしはダメだと思っています。たとえば、一口に大豆と言ってもさまざまな種類があって、その中には絶滅しかけている種もある。スーパーで大豆を買う人は少ないと思いますし、加工してくれる豆腐製造者がいるからこそ多様な品種が残っているんです。サイズに関係なく、食に関わる人たちがさまざまなつながりを持つことで、今日もわたしたちは美味しいお豆腐が食べられていると思っています」

   

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本気で夢を追うって
簡単じゃないんだってマジで

これから先、諦めたくなる瞬間が
かならず来る
もちろんおれにもくる

でも、その夢を実現できたら、
きっと「最高だ!」って思えるんだよ

だから、とにかく一歩踏み出す
その選択が正しいかなんて、
今の時点じゃ誰にも分かんないし

最終的に、自分の道は、
自分で選ぶしかないでしょ!

みんなを生きるな。
自分を生きよう。

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でも、その夢を実現できたら、
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